歴史を綴ったエピソード

TOPページへ⇒
 2010年10月に「プロパン産業新聞」は創刊50周年を迎えました。半世紀を振り返り、これまで起きたさまざまな出来事のなかから、歴史に残る話題となった事柄をピックアップ、そのエピソードを綴りました。
第1回〜昭和35年(1960年)
本紙創刊時の業界風景

 昭和35年(1960年)、日本のLPガス産業はいまだ黎明期の時代であった。都市ガスのない地域で、都市ガスに代わるガス体エネルギーの一つとして、脚光を浴びつつあった頃、本紙プロパン産業新聞が創刊された。
 この新エネルギーについては当時、業界内ではプロパンと呼んだり、プロパンガス、液化ガス、液化石油ガス、LPG、LPガスなどさまざまな呼び方をしていた。
 行政でもエネルギーというとらえ方ではなく、高圧ガスの一つというとらえ方をしていた頃で、行政窓口も通産省軽工業局無機化学課高圧ガス班が担当し、もっぱら保安面からの業界指導がなされていた。
 我が国で、LPガスが熱源の一つとして使われ始めたのは昭和30年(1955年)前後からであるが、先進国等ではすでにパイプガスと並ぶシリンダーガスとして定着していた。
 世界的には当時、LPガスの供給方式は米国型と欧州型の二通りがあったが、我が国は米国型を導入する事業者が多かった。米国型が安全弁方式の容器であるのに対し、欧州型は過流防止弁方式を活用していた。したがって、欧州方式はボンベを屋内に持ち込んで使用しているのに対し、米国方式は屋外設置が基本である。
 昭和35年当時の日本はこの両方、つまり屋内、屋外のいずれで使用しても法令違反ではなかったが、安全対策としては一本化していないとまずいということになって、米国型つまり屋外設置方式が日本にはふさわしいという方向で固まりつつあった。
 こうした発展段階の矛盾や課題はたくさんあって、健全な業界づくりで何らかの役割が果せるのではないかという使命感もあり、本紙も創刊されたといってよい。
 当時のLPガス業界の規模は、年間需要量43万d、一般消費者件数約400万戸と小さいもので、都市ガスを含めても日本の総需要戸数の5割程度の普及に過ぎなかった。しかし、新しい火力としてLPガスの普及は“燎原の火”のごとく全国に広がりを見せていた。
 LPガスの生産は、もっぱら国内石油メーカーの製品(リファイナリーガス)で賄っていたが、旺盛な需要に供給不足が常に話題になっていた。供給体制が整えば、日本のLPガス市場は大きな発展が見込めるような状況になっていた。石油元売りや商社などが、こぞって輸入を検討しはじめたのもこの頃であった。
 本紙「プロパン産業新聞」の創刊者は戸田瞬和である。昭和35年9月に発刊し、基礎を築いてもらった。昭和44年(1969年)6月、私、村岡清男がこれを引き継ぎ、平成14年(2002年)には、村岡真行が私の後を引き継いで今日に至っている。
 本紙50年を迎えた今年、記憶に残る話題やエピソードを、当時の目でなるべく簡潔に検証し、追ってみたいと思っている。(詳細はプロパン産業新聞2010年2月2日付で)
第2回〜昭和36年(1961年)
「自主保安基準をつくろう」と天の声

 昭和36年(1961年)、日本のLPガス産業がまだ揺籃期の時代に、我が国の名立たるプラントメーカーが中核となった、LPガス関係の新団体「日本LPガスプラント協会」(JLPA)が設立された。
 「プラントの自主保安基準をつくっては…」厳しい保安規制一本槍の時代、一度も耳にしたことのない、さわやかな自主保安の響きが今も記憶に鮮やかである。
 この言葉の発信者は、通産省(当時)の保安担当取締官、坂井芳雄高圧ガス班長からであった。当時の高圧ガス関連業界では“坂井天皇”として恐れられていた、高圧ガスの主ともいわれた取締官であった。
 その坂井天皇から新団体JLPAの発足にあたって、業界の自主保安基準をつくっては、との天の声が発せられたのであるから、関係者は大いに驚き、発奮し、直ちに基準づくりの作業に着手することにした。
 当時の我が国LPガス産業は、年間の需給量が100万dにも満たない小規模産業体で、一般消費家庭数も500万戸程度の規模でしかなかった。(詳細はプロパン産業新聞2010年2月9日付で)
第3回〜昭和37年(1962年)
保安規制の緩和をめざして業界初のプラント安全実験

 昭和37年(1962年)、我が国のLPガス産業は大きな躍進を遂げた年となった。LPガスの製品輸入がスタートし、供給体制の強化も図られた年であった。販売業界はLPガスの開拓普及に燃え、全国各地で販売網の拡大、流通基地や充填所づくりが進められた。
 しかしここで大きなネックになったのが、高圧ガス取締法の厳しい規制だった。LPガス充填所は、同法では「高圧ガス製造所」という位置付けであった。
 高圧ガス製造所は危険物を取り扱うということで、人里離れた郊外につくられており、法令では民家等に対し20b以上の保安距離、学校・病院等に対し100b以上の制限距離をとることが義務付けられていた。
 この規定でLPガス充填所をつくろうとすれば、最低5000平方b(約1500坪)の敷地を確保しないと建設許可が下りないという大きなカベがあった。
 前年(昭和36年)に発足したLPガスプラント協会(JLPA)は、スタート早々からプラントの自主保安基準づくりに取り組んできたが、この保安距離問題については、何度議論しても結論が得られず、次年(昭和37年)の宿題として持ち越された。
 法令基準(20b以上)のままでは、充填所や工業用プラントが思うようにつくれない、LPガスの普及促進も図れない、という声が業界内から噴出していた。行政当局に保安距離問題をなんとか解決(緩和)してほしいと申し入れをしていたところ、またもや“天の声”が発せられた。(詳細はプロパン産業新聞2010年2月16日付で)
第4回〜昭和38年(1963年)
保安距離問題を主題に47日間の「海外調査」へ

 昭和38年(1963年)、我が国のLPガス産業は大きな曲がり角を迎えていた。急激な発展に伴って爆発事故やCO事故などが頻発し、国民の厳しい指弾を受けた年でもあった。
 一般消費家庭でのガス漏れ爆発事故もさることながら、市中を走るLPGタクシーの爆発事故が相次ぎ、一般市民に「LPGは危険」というイメージを植えつけることとなった。
 一般紙等でも「走るナパーム弾」などと書き立てられ、タクシーに乗るときは、LPG車かガソリン車か確かめて乗った方がよいとか、LPG車に乗る時は喫煙をしないように、などといった記事が紙面を賑わした。ちなみに、当時の我が国のLPG車は普及を始めたばかりで、今日のような固定式容器でなく、着脱式容器の構造であった。
 この年の前年暮れのことであったが、山中湖山荘で10人が死亡するというガス事故が起こった。閉め切った部屋で、吸排気も不完全な状態のLPガスの風呂を点けっ放しにしていて起こった事故で、今日ならガス供給者はもちろん、器具メーカー、設置業者の責任が問われたケースかもしれないが、当時は消費者の取り扱いミスとして取り扱われた典型的なCO事故であった。
 また、プラント関係でも前年後半から、重大な問題が発生していた。LPガス用球型タンクの溶接部で、ガスが滲み出たり、一部噴き出すという油断ならぬ事故が各地で頻発した。タンクが古くなって起こった事故ではなく、新設タンクで起こっていることから、タンクの構造的な欠陥、脆性破壊事故として問題視され、緊急対策が講じられた。(LPG車と球型タンク事故については、別稿で改めて紹介する予定)
 こうした状況のなかで、保安距離規制の緩和を図るための「海外調査」が実施されることとなった。1963年5月から6月にかけて、47日間の日程で欧米先進国14カ国へ保安距離問題についての視察・調査代表団を編成し、派遣するというものである。(詳細はプロパン産業新聞2010年2月23日付で)
第5回〜昭和38年(1963年)
「20メートル」が最小「8メートル」に 保安距離の短縮を実現

 昭和38年(1963年)8月10日付けで、高圧ガス取締法(現・高圧ガス保安法)施行規則第9条の保安距離基準「20b」を、「8b」とする省令改正が行われた。
 LPガス事故が頻発していた時代に、どうして法令規制の緩和を図ることができたのか。20bといえば1500坪、8bなら150坪。日本のLPガス産業の成長発展に大きな役割を果たした保安距離規制緩和の夢が実現した日であった。
 この省令改正以降、全国各地に流通基地や充填所、オートガススタンド、工業用プラント等が続々と建設され、我が国は世界第2のLPガス大国に成長することができた。改正以前は、日本のLPガス市場は年間最大500万dといわれていたが、緩和に成功したことで、4倍近い1900万dの市場規模を実現させた。
 規制緩和させることがいかに難しいかを示すこととして、まず保安距離規制一つ緩和させるのに3年余の歳月を要し、安全基準をつくり、確認実験を行い、海外調査まで行って、ようやく実現にこぎつけたという経緯からしても、十分に察していただけよう。しかし、これですべてOKとはいかなかった。
 行政当局(通産省)の法令審査をクリアしたうえでなお、最終的には「公聴会」にかけられて賛同を得る必要があったのだ。幸いにも筆者は、この保安距離基準改正の歴史的場面に立ち会う機会に恵まれた。
 公聴会は昭和38年7月、通産省の会議室で開催された。利害関係者ら50〜60人が出席したなかで、高圧ガス担当課長が議長となり、担当班長から改正条文の説明が行われた。(詳細はプロパン産業新聞2010年3月2日付で)
第6回 業界発展期に起こった数々の「典型的な事故」

 我が国のLPガス産業が大きく躍進し始めた昭和37〜38年頃、LPガスの事故も各分野で連続発生した。
 振り返ってみると、徹底的に研究し、再発防止策を講じたものは、その後の再発はみられないが、「消費者ミス」などとして、消費者のせいにした事故は、再発を繰り返してきている。業界発展初期の典型的な事故例について検証し、その教訓を考えてみたい。
 【昭和36年〜】@一般家庭でのLPガス事故
 【昭和37年】A山中湖畔山荘でのCO事故(10人集団死亡)、BLPガス輸入船&受入冷凍タンクのトラブル、CLPガス球型タンク溶接部のヘアークラック
 【昭和37〜38年】DLPGタクシー連続爆発
 【昭和39年】E茨木LPガス充填所10dタンク爆発事故(4人死亡)
 【昭和40年】F西宮LPガスタンクローリ転倒爆発事故(5人死亡)
 【昭和41年】G山形LPガスタンク車荷卸爆燃事故

@一般消費家庭で のLPガス事故
 この当時の一般消費家庭でのLPガス事故は、大半が「ガス漏れ、滞留、引火爆発」というものであった。
事故原因の多くは「消費者の取り扱いミス」というのが大半で、販売事業者の供給ミスが問われることはほとんどなかった。
 ちなみに、昭和36年度の事故件数は39件(LPガス消費者戸数は約500万戸)、37年度は63件(約700万戸)、38年度は47件(約900万戸)で、各都道府県からの事故報告が必ずしも正確がどうかはわからないが、件数的には今日と比べて、それほど多くはなかった。
 しかし、当時のLPガス事故はそれまで、一般社会があまり経験していないものであったためか、マスコミ等で派手に報じられ、危険なエネルギーとして社会的な指弾を浴びることが多かった。それでも、LPガスは便利なエネルギーとして、都市ガスの普及していない地域で急速な普及発展を遂げていった。(詳細はプロパン産業新聞2010年3月9日付で)
第7回 業界発展期に起こった「典型的な事故」〜10人死亡、山中湖畔山荘CO事故
 昭和37年9月、山梨県山中湖畔の山荘で火災が発生し、焼け跡から10人の男女の遺体が発見された。
 当初、集団自殺ではないかなどという報道がなされたが、実は東京銀座のバーで飲んでいたメンバーが、山中湖畔の山荘で飲もうということになり、夜半にバーのママも含む男女10人で山荘へ向かい、その深夜、寝ていて全員が死亡したという事故であった。
 山荘に着いた10人中の何人かは、まずは風呂に入りたいと、山荘のLPガス用の風呂を沸かして入浴しているが、風呂バーナーの火はつけっ放しのままで、飲んで寝た人、飲まないで寝た人がいたと思われる。
 9人は寝た状態で、1人は台所に倒れた状態で死亡していた。遺体の解剖結果からLPガスによるCO中毒死と判明したが、当初はその原因が分からず、男女10人ということで、種々の憶測記事が新聞紙上を賑わした。
 同山荘が火事になったのがどうしてか、しばらく不明であった。CO中毒事故は判明したが、出火の原因が不明で、究明に時間がかかった。結局、長時間空焚き状態を続けると、過熱で自然発火したものと推定された。
 そもそも同山荘の屋内式風呂釜には、屋外に通じる煙突が無く、風呂場自体にも換気口がない密閉構造であった。また、風呂釜のバーナー自体も規格に合っていないものを使用していた。さらに問題なのは、風呂用の調整器が工業用のものを付けており、調整圧力が高く、それ自体でも不完全燃焼を生じさせていたことなどが判明した。
 こうした設備状況から考えると、CO中毒事故は起こるべきして起こった典型的な事故といってよい。(詳細はプロパン産業新聞2010年3月16日付で)
第8回 業界発展期に起こった「典型的な事故」〜LPG冷凍タンカー&冷凍タンク
 我が国LPガス業界が、初めて中東産の製品LPガスを輸入したのは昭和36年(1961年)の暮れ。その第1号のLPガスを、クウェートから20日間かけて運んできた冷凍タンカー豪鷲丸(LPGと原油の混載船。LPG積載量は4・700d)が、その処女航海において、船体にコールドスポットが発見され、緊急点検、補修のためにその後のプロパンの輸入業務をしばらく休むというトラブルが起こった。
 原因は、タンカー内のLPガスタンク内壁の一部に低温による脆性破壊(材料が延性を欠き、外力による変形の小さいうちに破壊する現象)が生じたのではないかと考えられたが、最終的なその原因は公表されなかった。
 豪鷲丸はこのあと、原油とブタン(ブタンタンクには欠陥が発生していなかった)を3〜4次航海したあと、本格改修工事を行い生まれ変わったが、この小さな事故の教訓を我が国の造船メーカーはしっかりと学んで、このあとの冷凍タンカーでの同種のトラブルは二度と発生することはなかった。
 我が国LPガス輸入船第2号となった、第1ブリヂストン丸(LPG専用船。積載量1万6500d)が処女航海で中東産の低温LPガスを積んで川崎の基地に着岸したのは、豪鷲丸の3カ月後、昭和37年3月であった。
 輸入基地も、初の低温LPG(プロパンはマイナス42度、ブタンはマイナス5度)を受け入れる体制を整えて待機していた。冷凍タンカーから冷凍タンクへの初の荷揚げ作業は無事終了と思われたが、ここでもトラブルが待ち構えていた。タンカーではなく、受入基地側の冷凍タンク(プロパン用1万2000d)で問題が発生し、立ち会っていた関係者を震撼させた。(詳細はプロパン産業新聞2010年3月23日付で)
第9回 業界発展期に起こった「典型的な事故」〜球型タンク溶接部でガス漏れ
 「つくったばかりの球型タンクの溶接部で、ガス漏れが発生している」という声が業界内をかけめぐり、びっくりしたのは昭和37年(1962年)暮れのことであった。
 一部地域だけでなく、他地域からも似たような話が出てきたので、「これは放置できない!」ということになり、緊急対策として行政当局とともに、タンクメーカーの集まりであるJLPA(日本LPガスプラント協会)が対応することになった。
 季節が真夏でなく真冬であったので、タンク内のガス圧もそれほど高くなく、ガスが「吹き出す」というより「にじみ出る」ような漏洩状況であった。プラント構内でのガス漏れは、それが微量であれ、放置することは許されない。
 よく調べると、球型タンク溶接部でヘアークラックが発生し、そのクラック部分からのガス漏れであることがわかった。幸いにして、タンクの破裂やタンク爆発は起こっていないが、放置しておくとクラックが進行し、タンク本体の破裂事故に発展する可能性もあると判断、業界と行政で協力して「緊急対策委員会」を設置し、解決を急ぐことになった。(詳細はプロパン産業新聞2010年3月30日付で)
第10回 業界発展期に起こった「典型的な事故」〜閣議でも議論、LPG車の爆発
 我が国でLPG車が普及しはじめたのは昭和37年(1962年)。LPガスの輸入が本格化するなかで、ブタンの新規用途の一つとしてクローズアップされたのが「自動車用」であった。
 当時の輸入LPガスは、プロパンとブタンがほぼ同量ずつ輸入せざるを得ない条件になっており、家庭業務用のプロパンは需要も旺盛であったが、ブタンは需要先が少なく、そのために販売価格もプロパンに比べると、かなり安い市場価格で、その用途の開発が、業界の重要な課題となっていた。
 こうした状況のなかで、自動車用燃料として真っ先に導入を図ったのが、タクシー業界であった。ガソリン車からLPG車へ、我が国では初めての改造技術であったが、欧米等ではすでに実用化し軌道に乗っている技術であった。
 タクシー業者は、燃費がガソリンの半分で済み、行政当局に使用燃料変更届を提出するだけで、手軽に採用できることから、保安・安全対策についての十分な検討もなされないまま、導入普及が図られていった。
 急速な普及で、当然のごとくLPG車の事故が各地で頻発することとなった。タクシー乗客がたばこに火をつけた瞬間、車内で爆発が起き、乗客も運転手も火傷を負ったというのが典型的な事例で、主な原因は客室内の後部トランク内に格納されているLPガス容器から、ガスが漏れ、客室内に流入したものと考えられた。
 着脱式の容器であるため、容器の取付けバンドの締めつけ金具が外れるなどして、振動等により容器が動き、LPガス取出しバルブに結合されている高圧ホースとの結合金具がゆるみ、ガス漏れを起こし、トランク内とともに客室内にも流入したものと想定されていた。
 当時、集中的に各地で派手なタクシー爆発が起こったので、一般紙等では「走るナパーム弾」「棺桶タクシー」、さらには「焼き鳥タクシー出現」などとショッキングな見出しや非難の論陣が張られたりした。(詳細はプロパン産業新聞2010年4月6日付で)
第11回 業界発展期に起こった「典型的な事故」国内初のLPガス充填所爆発
 昭和39年(1964年)9月14日午後2時7分、大阪府茨木市の奥村充填所で爆発事故が発生、ローリ運転手、充填所関係者ら3人が死亡、周辺住民61人が重軽傷を負った。
 同充填所は、10dタンクを装備した、典型的な中堅販売店経営の小型充填所であった。事故は、タンクローリから充填所のタンクに荷降ろし(移充填)中に起こった。充填所の受入れ責任者が不在で、次の予定が入っていたローリ運転手は、やむなく一人で荷降ろしをするために、ローリと受入れタンクのホースを接続し、作業をしようとしたが、機械(ポンプ)が不調で、スムースに荷降ろし作業ができなかった。
 仕方なく、ホースを接続したままの状態で、充填所責任者の帰りを待っていた。9月といえば残暑が厳しい炎熱の季節であり、しかも照り返しもまだまだ強い時間帯だった。突如、ごう音とともに、狭い充填所内は噴出しはじめたLPガスで白煙もうもうとなった。
 ローリ運転室内で一人待機していた運転手は緊急事態の発生に驚き、ガスの噴出を止めようとしたものと思われるが、爆発の犠牲となり、どう対応したかは不明である。
 当日は日曜日で、事務所にいた社員と配送から帰ったばかりの社員は、現場を目撃していたが、2人とも死亡。10dタンクを含むプラント設備は爆発し、200b以上も破片が飛び散った。
 昭和39年といえば、JLPA基準(日本LPガスプラント協会制定の安全基準)ができて、プラント建設で活用され始めた頃であった。この爆発炎上した奥村充填所は、JLPA基準が制定される前に建設されていたこともあって、かなり問題個所があったので、奥村実業社長は近くに新しい充填所建設を進めていて、2週間後には移転する予定であった。(詳細はプロパン産業新聞2010年4月13日付で)
第12回 業界発展期に起こった「典型的な事故」 茨木充填所爆発事故の教訓
 昭和39年(1964年)に大阪府茨木市で起こったLPガス充填所事故は、我が国初のタンク爆発を引き起こし、死者3人、重軽傷61人という重大事故となった。前号に引き続いて、そのエピソードを紹介する。
 (1)事故原因をめぐって、あえて一つに特定せずに複数としたのは、この事故の原因が複数考えられたことに加えて、保安教育材料として役立つようにしようという理由からであった。
 爆発直前、プラント構内が白煙もうもうとなったのは、2インチ口径のホース接続口からのLPガス噴出によるものであった。今日では緊急遮断弁が付いているので、基本的には起こり得ない事故であるが、遮断弁が正常でなかったらいつでも起こり得るということで、事故防止対策としては、今日においても想定しておいた方がよい課題である。
 どうして、この充填所でガス噴出が突如起こったのか。事故現場にいて状況を目撃していた3人はその場で死亡しているので、調査委員会は可能性のある原因として、次の3点を提起した。
@ローリ受入れ用のゴムホース破裂説
 今は大半が金属製のローディングアームになっているが、当時は、2B口径の高圧ゴムホースが使われていた。取り付けて3年以上使用しており、摩耗劣化が進んでいたという。茨木充填所の近くに新しい充填所を建設し、2週間後には移転する予定で、廃棄直前のものであった。水道ホースで水が噴き出すような光景ではなかったかという想定である。
 Aローリが動いてカップリング折損説
 ローリは、ホースを接続したまま3時間余も停車していた。車止めもなく、しかも停車場は若干斜面になっていた。ローリ運転手は運転室で待機していたが、ローリのサイドブレーキをかけていなかった。事故後の検証で、接続用カップリングは折損し、抜け落ちていたことがわかった。
 B配達から帰った車との衝突説
 約150坪と狭い充填所構内でホースを接続したままのローリ本体に、配達車が接触して、ローリを移動させカップリングを折損またはホースを切断させたことで、ガス噴出に至ったという説も想定可能として提起された。(詳細はプロパン産業新聞2010年4月20日付で)
第13回 LPガスの利用と開発に助力〜推進派だった旧科学技術庁
 連載第10回(4月6日号)の「LPG車事故」をめぐる閣議のもようで、LPG車を禁止しようとした各閣僚たちの発言に、近藤鶴代科学技術庁長官(当時)がストップをかけて、最終的には安全なLPG車の開発、普及に成功したエピソードを紹介した。また、第9回(3月30日号)では、「LPG球型タンクの応力腐食割れ事故」に、同庁が1500万円の緊急対策費を支出し、事故解決を助成したことを紹介した。
 実は、このほかにもいろいろあった。LPガス業界初期に、「液化石油ガス利用合理化に関する勧告」(昭和36年7月26日付、科学技術庁資源調査会勧告第10号)を出し、我が国におけるLPガスの健全な普及発展を、行政としても応援すべしと提言している。
 その科学技術庁が、昭和39年(1964年)には、「食品低温輸送方式へのLPガス冷蔵車の実用化に関する報告」(資源調査会報告第25号)を発表し、我が国LPガス産業の「新規用途開発」の取り組みについても一石を投じてくれたことがあった。
 この報告書は、750字×260ページという、かなり内容の濃い文献集にもなっており、目次アイテムが約110項目、参考図表等が144件も収録されている。
 当時の科学技術庁が、新エネルギーとして普及しはじめたLPガス産業を、強力にバックアップし、育成しようとしていたことを物語る事例の一つといってよいだろう。(詳細はプロパン産業新聞2010年4月27日付で)
第14回 LPガススタンド建設に“住民の反対運動”勃発
 我が国のLPガス業界が大きな飛躍を遂げようとしていた、昭和38年(1963年)後半からの数年、業界の明るい夢を打ち砕くような住民反対運動が、都市部を中心に沸き起こった。
 ガソリンスタンドと同様に、LPガススタンドの建設が街中でもできるようになったのは、同年8月の法令改正(保安距離規制20bを8bに緩和)の直後からであった。
 LPG車も着脱式容器方式から固定式容器方式に改まったことで、LPガススタンドの建設が待望されていたとき、降ってわいたように、LPガススタンド建設に反対する住民運動が全国各地で立ち上がった。
 行政当局は法令基準に基づいてプラント建設に許可を下したのに、地元住民が反対して建設ができないというケースがあちこちで発生した。
 業界関係者も、はじめのうちは、話せば分かる、そのうちに収まる、などと高を括っていたが、住民の反対運動は収まるどころか逆にねじれ、こじれて、深刻化するものが増えていった。
 住民反対運動が起こったのは、言うまでもなくLPガス事故の頻発、とくにLPGタクシー事故の頻発が大きな引き金となった。
 スタンド建設の情報に周辺住民は即座に反応し、自治会や町内会単位で反対の意思表示をするなどして行動に移した。住民への建設計画の説明会が各地で行われたが、何度話し合いをしても平行線というケースが多かった。(詳細はプロパン産業新聞2010年5月11日付で)
第15回 昭和30年代の成長期に関係諸団体も続々発足
 日本のLPガス産業の本格スタートの年とされている昭和30年(1960年)に、業界初の団体「全国プロパンガス協会」が設立された。会長には日本酸素(当時、現大陽日酸)の社長高橋直行氏が就任、新生LPガス産業の取りまとめ役、指導機関として活動を開始した。全国各都道府県も中央団体の発足に連動した形でそれぞれの業者組織(県協)をつくっていった。
 昭和36年にプラントメーカーの団体(JLPA)が設立スタートしたことは、連載の初めに紹介したが、JLPAはLPガス関係の中央団体のなかでは、全国プロパンガス協会に次ぐ2番目の業界団体だった。
 同じ昭和36年に、中央団体の3番目となる「全国プロパンガス販売商工組合連合会」(全商連)が発足した。JLPA、全商連の設立は、その他の新団体設立のきっかけとなった。(詳細はプロパン産業新聞2010年5月18日付で)
第16回 調整器出口圧をめぐる東西メーカーの対立
 この連載で、これまで昭和30年(1960年)代のLPガス業界の歴史に残る出来事やエピソードを個別、断片的に紹介してきたが、そろそろ30年代から40年代の話題に移そうと資料のチェックをしていたら、まだ30年代の出来事で取り上げたい話題が何件かあるのに気がついた。
 「調整器出口圧をめぐる東西メーカーの対立」などといえば大げさかも知れないが、業界草創期において実際に発生し、保安問題とも絡んで、業界協調で収拾解決をしなければならなかった、重大案件の一つであった。
 兵庫県液化石油ガス設備工事者協会事務局長をされていた村山孝氏(故人)が、弊紙発行の「LPガス産業の源流」の中で、次のように紹介している。
 わが国でLPガス用の調整器が開発され始めたのは昭和27年、それまでは減圧器(減圧弁)などと呼ばれていたものが、JIS規格で名称が「調整器」と改められた。
 昭和30年代に「家庭用プロパンガス取扱基準要綱」が制定されたが、それまでは昭和29年12月1日付東京都、同30年3月12日付神奈川県等、各都道府県ごとの指導基準が示されていた。
 こうした指導が、全国的に全国プロパンガス協会によって基準要綱として統一制定されたのは、昭和37年7月20日のことであった。
 東京都プロパンガス取扱基準要綱(経済局長名の通達)の第28条1項及び第7条2項には、「調整器の基準、調整圧力は700_b水柱以下とすること」と明記されていた。(詳細はプロパン産業新聞2010年5月25日付で)
第17回 「自主保安体制」をめぐる各界関係者の主義主張
 昭和38年(1963年)、高圧ガス取締法(現在の高圧ガス保安法)大改正の柱は「自主保安体制」を導入したことであった。自主保安体制の導入に当たっては、行政当局を中心に関連業界や学会等の関係者間でも大議論が行われた。
 高圧ガスの保安確保には法令規制だけでは不十分。民間の先進的な技術力も活用し、行政による強制保安と民間の自主保安の両輪体制ですすめるのが理想である、という新しい保安体制への基本的な改革を伴う改正であった。
 行政としても、多様化する高圧ガス関連産業に対し、法令規制だけで保安体制が十分に確保できないという時代的背景があったことも事実。
 民間側にとっても自主保安体制の導入に異論はなく、大賛成。厳しい法規制だけでは、事業の発展を阻害するので、なるべく自主保安体制にまかせてほしいという主義主張では一致していた。
 学会等からも種々の発言があった。東大教授で日本冷凍協会会長をされていた加藤正雄氏は、国際冷凍学会員で欧米先進国の実情に詳しく、「法規で取り締まらなければ安全が保てないような業界では、恥ずかしいと思わねばならぬ」と主張し、冷凍業界の自主保安体制をいち早く導入したことで斯界では有名。(詳細はプロパン産業新聞2010年6月1日付で)
第18回 LPガスが初めて体験した39.6.16新潟大地震の教訓
 昭和39年(1964年)6月16日、新潟地方で発生した震度5強の大地震はLPガス事業者にとって初めて体験する震災であった。
 この地震の発生時刻は13時01分。新潟県南方沖40`、深さ34`を震源とし、地震の規模はマグニチュード7・5。被害は死者26人、家屋全壊1960棟、半壊6640棟、家屋浸水1万5298件、日本海側を中心に津波を伴った地震であった。
 東京地区でも震度3クラスのヨコ揺れがしばらく続いた。これは大きいと、テレビで地震情報を目の当たりにしてびっくり。新潟市内の大きなマンション等の建物が横倒しになったり、石油基地が黒煙もうもうと炎上する模様が次々と映し出された。
 LPガスと地震の関係について、我が業界はこの当時まで地震対策についてほとんど本格的な検討がなされていなかったこともあって、直ちに現地調査をしようということになった。
 プラントの安全基準をつくったばかりの日本LPガスプラント協会(JLPA)が事務局となり、通産省保安担当技官の佐野和四郎氏を団長に、JLPA技術委員会の各分野の専門家8人で調査団を編成、3日間にわたり、現地で可能な限りの調査を行った。
 この地震がとくに注目され、多くの人々の記憶に残っているのは、昭和石油新潟製油所の火災が12日間も延々と続いたということではなかろうか。当然、製油所構内にはLPGタンクもあり、地震の影響、油タンク火災の影響がプラントにどのような損傷を与えたかがチェックポイント。(詳細はプロパン産業新聞2010年6月8日付で)
第19回 LPガスで「都市ガスづくり」 ブタン利用の開発先として脚光
 昭和30年代(1960年)の初め、家庭用のLPガスが「プロパン」の容器販売を主体とする供給体制で定着したのに対し、原油の精製過程で、ほぼ半量産出される「ブタン」の需要先が大きな業界課題となっていた。
 自動車用燃料としてブタンガスを活用するに至った話は、このシリーズの第10回(4月6日号)でも紹介した通りであるが、それ以前に「中小都市ガス」の熱源や「工業用」の熱源として、ブタン開発普及に苦闘し、大きな役割を果たした歴史的事実があったことを、忘れてはならない。
 大阪に本拠を置く丸善石油(当時)は、LPガスの生産、供給で業界の先頭を走っていたが、このブタン活用策についても、いち早く経営戦略を講じていた。
 昭和33年、プラント・エンジニアリング専門の系列会社「丸善ガス開発」(大阪、資本金1億円)をつくり、中小都市のガス化、工業用の技術開発の事業で、ブタンの開発普及を図ろうという戦略をつくっていた。
 この新プロジェクトのリーダーを務めたのが、太平洋戦争の生き残りで、元潜水艦艦長の椎塚三夫氏。丸善ガス開発の代表取締役常務として、八面六臂の活躍をすることになった。(詳細はプロパン産業新聞2010年6月15日付で)
第20回 「不足」「過剰」を繰り返した昭和30年代のLPガス需給
 我が国のLPガス供給が本格化しはじめたのは昭和30年(1960年)、この年の需要量は年間約3万d、5年後の昭和35年には43万d、さらにその5年後の昭和40年には270万dと急成長し、この10年間で約100倍の伸び率となった。
 こうした急激な普及発展がもたらす業界的な歪みが事故であったり、需給のアンバランスであったりする。これまで取り上げてきた各種事故やトラブルは、こうした業界の急激な発展段階で、起こるべくして起こった歪み現象といってもよいかも知れない。
 10年間で100倍という驚異的な普及を果たしたLPガス産業の「需給」をめぐるドラマも、歴史を綴ったエピソードの一つとして、記憶に留めておきたいという思いで、このシリーズに加えた。
 昭和30年からの10年という時代は、我が国の経済も拡大発展し、国民の生活水準も向上、産業の近代化も図られつつあった時代で、その目玉が東京オリンピック(昭和39年)であった。
 石油産業の発展とともに歩んできた我が国のLPガス産業も、製油所の規模拡大による増産が図られていたが、それ以上に全国的に急速な普及発展を続ける家庭・業務用を中心とした、大きな需要には応えきれるものではなかった。(詳細はプロパン産業新聞2010年6月22日付で)
第21回 「生成発展」の30年代から「激動・波乱」の40年代へ
 LPガスが国民エネルギーの一つとして、都市ガスのない地帯へ文明の炎「ガス」を本格的に供給しはじめたのは、昭和30年代からであった。
 昭和30年(1960年)のLPガス需要量は年間3万d、需要家件数については正確な統計数字がないが、仮に1件当たり300`c(年)使ったとすれば10万件くらいになる。実数はもっと多かったかもしれない。
 10年後の昭和40年には、需要量がおよそ100倍の年間269万7000dとなり、LPガスの需要家件数も1178万件と100倍を超える飛躍的な成長を成し遂げた。
 さて、昭和40年代の10年間はどうであったのか。LPガスの需要量と需要家件数を統計数字でみると、昭和40年の需要量269万7000dが昭和50年には1042万3000dに、需要家件数1178万件が1955万件へと拡大発展を遂げている。
 昭和30年代のLPガス業界の歴史に残る事故や出来事などについては、このシリーズで20回にわたり紹介してきたが、まだ大事なことが残されているような気がしてならない。あれがあるのではないか、これもあるぞとお気付きの話題があれば、ぜひご指摘いただけると有難い。
 昭和40年代のLPガスの歴史を綴ったエピソードについて、ここでとりあげたいテーマは沢山ある。40年代はまさに「激動・波乱」の時代であったと言いたい。
 日本国民を驚かせた大きな事故は、昭和40年10月26日の西宮タンクローリ爆発事故(5人死亡、21人重軽傷、民家全焼18戸)くらいであるが、一般家庭の爆発事故が10年間で約10倍の500件台(年)を超えて、止まらない状態になっていた。(詳細はプロパン産業新聞2010年6月29日付で)
第22回 朝日の記者も事故死した西宮LPガスローリ事故
 昭和40年(1965年)10月26日、早朝午前3時20分、兵庫県西宮市川西町12、第2阪神国道上で、LPガスタンクローリが走行中に転覆し、タンク頂部の安全弁スリップチューブを折損。大量のLPガスが噴出し、道路周辺に白煙もうもうと拡散流出していった。
 事故の発生状況を目撃したタクシー運転手の話によると、現場国道は片側4車線、ローリは当初第3車線(貨物車線)を進行していたが、右側第2車線進行中の他の車両が急に左折してローリの前に出ようとしたので、ローリも慌てて左へハンドルを回したとたんローリは転覆した。
 ローリ転覆後の状況からみて、転覆の際、歩道橋縁石の角にタンク後部が当たって、そのまま数メートル滑り、横断陸橋の橋脚に前車輪をひっかけた状態で停止した。その直後から大量のLPガスが噴き出し始めた。
 事故に気付いたタクシー運転手は救助しようとしたが、白煙が立ち込めて手の施しようがなく、恐怖心で現場から離れたと証言している。
 転覆事故でローリのLPガスが噴出し始めてから5分後、最初の着火爆発(爆燃)が起こった。道路上や国道の側溝内など広範囲に流出したLPガスに次々と着火し、約20分にわたって、あちこちで爆発音が鳴り響いた。
 事故現場にいち早く駆けつけて、歩道橋の上から写真を撮っていた朝日新聞の記者が、この現場で事故死したので、このローリ事故はマスコミでも大きく取り上げられ、社会問題化される要因ともなった。
 死亡5人、負傷21人(重傷10人、軽傷11人)、全焼家屋18棟(被災人員72人)、半焼家屋13棟(被災人員60人)というのが西宮ローリ事故の被害状況であった。(詳細はプロパン産業新聞2010年7月6日付で)
第23回 業界初の施設・設備総点検 「防災教育」を交え全国展開
 昭和40年(1965年)代を迎えたLPガス業界は、保安問題でまずは「けじめ」をつける「歴史的事情」があった。というのは、30年代に建設された充填所等のプラント設備はしっかりした安全基準に準拠してつくられていないものが多く、保安上のトラブルが頻発しつつあった。
 その一つが、39年9月に大阪府茨木市で起こった充填所爆発事故であり、LPガスプラントや工業用プラント等での中小の事故の頻発であった。とくにLPガスプラントのトラブルは、LPG車の急速な普及とともに増加していた。
 業界が健全な発展を遂げるためには、ここらでしっかりした保安対策を構築しておく必要があるとの声が高まりつつあったのも事実であるが、きっかけはやはり、第二の茨木事故を起こしてはならないという、保安リーダーたちの熱い思いがあって、40年の春に「LPガス災害防止委員会」が編成された。
 活動体制は、当時発足したばかりの高圧ガス保安協会とLPガス関係6団体が協力して実施することとし、各団体から代表委員を出し、委員長にはLPガス生産輸入懇話会(現日本LPガス協会)代表の福井公四郎ゼネラル瓦斯常務が就任した。
 活動組織は、本部委員会の下に各都道府県ごとの地区委員会を置き、全国規模で展開することとした。
 (1)全LPガス事業所(充填所等)の施設、設備の総点検(2)経営者の自主保安意識向上を図る講習(3)一般従業員に対する実務教育訓練―の3つのテーマを約1年かけて確実に実施することとし、活動が円滑に実施されるよう実施要領書なども作成し、指導員に対する説明会も全国的に行った。(詳細はプロパン産業新聞2010年7月13日付で)
第24回 緊急遮断弁取付け法制化 矢野課長の「決断」で活路
 昭和41年(1966年)の春、プラント関連事故対策の一環として「緊急遮断弁」の取付けが法令で義務付けされた。
 緊急遮断弁は貯槽やタンクローリ、鉄道タンク車等大型容器からのガス噴出事故を自動的に止める安全機器の一つとして、我が国では40年代初めに開発された。行政当局もその有効性を評価し、法制化したことは7月6日号(第22回)でも紹介した通りである。
 充填所等のプラント事業所は全国で約2000カ所。タンクローリは約3000台、鉄道タンク車は880輌、これらのタンク配管出入口部に6カ月以内に緊急遮断弁を取付けるという我が国初の設備改善、安全機器取付け大作戦が展開された。茨木事故(39年)、西宮ローリ事故(40年)のようなプラント関連事故防止には大いに効果のあるハード対策として、関係者からも支持され、取付け運動は順調に進められていった。
 こうした緊急遮断弁取付け運動のなかで、鉄道タンク車グループから「鉄道タンク車はこれまで保安上のトラブルは起こしていない。緊急遮断弁の取付けは実施するが、タンク車再検査時に併せ行うものとしてほしい。取付け費用が法令通りの実施(6カ月以内)となると、タンク車全体で約20億円もかかる。再検査時でもよいとしてくれたら10分の1の2億円で済むので、猶予期間について何とかならないか」という声が上がった。
 当時の鉄道タンク車は、温度規制(40℃以下とする)を受けて、タンク周りに覆いをしていた。緊急遮断弁を取付けるには、これらの付属部品の分解等が必要となり、総費用が全車輌で20億円もかかるということであった。車輌再検査時でよいとなれば、弁の代金(約2億円)程度で済むという計算であった。
 この悩ましい難問を行政当局、通産省(当時)の保安課へ持込み、法令改正で義務化したばかりの緊急遮断弁の取付けについて、鉄道タンク車については猶予期間を再考してもらいたいと陳情することになった。(詳細はプロパン産業新聞2010年7月13日付で)
第25回 一年で変わった業界環境「需給安定法案」見送りへ
 昭和40年代の幕開けは、LPガス販売業界にとっても、これまでにない「激動・波乱」の年であった。全国民に知れわたった西宮タンクローリ爆発事故、前年(39年)に起きた茨木充填所爆発事故の後始末(総点検)、緊急遮断弁取付義務化をめぐるエピソード等については、このシリーズで紹介したところである。
 ところが、この同じ時期に、販売業界のなかでガスの需給、価格問題などをめぐって深刻な事態が起こっていた。その経緯、概要等について、当時の通産省で流通行政を担当していた丹治龍二氏がレポートを詳述しており、これを要約して筆者の印象とも併せて紹介する。
 成長、発展段階の業界では商品の需給不安や価格問題は常時発生する。ガス不足問題は前年(39年)下期入りの時から、すでに表面化しはじめていた。当初はそれほど深刻には受け止められていなかったが、年末(39年)に入って長期海員ストで輸入落込みが起こり、また各石油精製会社の過剰対策で原油処理の削減が実施されたこと、タクシー業界のLPガス転換に伴うガソリン減産化対策などもあって、ガス不足は顕在化し、昭和40年代は、年明け早々からガス不足が問題化し、これに伴いガス価格もメーカー、卸、小売段階で大幅値上がりとなった。
 販売業界は行政当局に対し、需給緩和策の実施とともに、LPガス事業法の制定を求める陳情を行った。
 国会、衆院予算委員会では、野党からガス不足対策について行政としての緊急対策を聞かれ、当時の桜内義雄通産大臣は「LPガスの価格、需給など消費者擁護の立場から法律制定を次期国会までに検討する」との答弁などが出た。(詳細はプロパン産業新聞2010年7月27日付で)
第26回 LPガス単独の法令が誕生 高圧ガス取締法省令大改正
 昭和41年(1966年)は、LPガス業界にとって行政面で大きな変革の年となった。前年に需給安定法(液化石油ガスの需給の安定及び取引の適正化に関する法律案)が業界環境の変化もあって流産したあと、大きくクローズアップしてきたのが、高圧ガス取締法(現・高圧ガス保安法)省令の全面大改正であった。
 同法の旧省令は酸素、窒素、アセチレン等、いわゆる一般高圧ガスの保安規制が中心で、LPガスは新規参入の高圧ガスの一種であるところから、いわばツギハギの条文になっていた。当時、高圧ガス保安で災害事故を頻発させていたのはLPガスで、行政当局としてもLPガス事故を何とか退治しなければ、という行政意識が盛り上がっていたのは確かであった。
 昭和39年、通産省入省組の辛嶋修郎氏が、最初に配属されたのが、現・保安課の前身の無機化学課だ。保安行政の総括係長として、矢野俊比古課長、前田典彦、末木鳳太郎総括班長の下で、この高圧ガス取締法省令の全面大改正の実務を実質的に取り仕切ったキャリア官僚である。
 大物先輩たちに恵まれたこともあるが、高圧ガス省令の全面大改正にかけた辛嶋さんの熱意、自由闊達な活躍ぶりは、当時の彼を知る人々の脳裏には、今も鮮やかである。
 ツギハギだらけの省令を「一般高圧ガス保安規則」「液化石油ガス保安規則」「冷凍保安規則」「容器保安規則」等と明快に区分整理し、業種業態に応じた規制ができるようにしたということの評価は、関係者が等しく認めているところである。(詳細はプロパン産業新聞2010年8月3日付で)
第27回 行政は「保安重視」の体制へ 業界は自主保安体制を推進
 昭和40年(1965年)代に入って、LPガス事業は国民生活必需物資を提供するエネルギー事業の一つとして、行政的にも重要視されるようになった。
 30年代までは、都市ガスのない地域に都市ガスと同じ役割のガスを供給し、国民生活の向上に貢献しつつあったにもかかわらず、保安行政は高圧ガスの一種、流通問題は石油製品の一種としての取扱いであった。
 通産省軽工業局無機化学課が高圧ガスの担当課で、LPガスもこの課が昭和41年3月まで担当していた。
 同年4月、通産省の機構改革により、軽工業局無機化学課は化学工業局保安課となり、初代保安課長に矢野俊比古氏が就任、LPガスの保安も引き続き担当することとなった。
 他方、当時LPガスの流通を担当していたのは鉱山局石油業務課で、LPG担当班長が丹治龍二氏であった。
 LPガス需給安定法が41年6月、業界環境の変化で見送りになったことは、このシリーズ(7月27日号)で紹介した通りである。つまり昭和40年の時点ではそのニーズがあったが、1年後の41年には需給・価格とも安定したことで、法制化に持ち込むのは難しいとの行政判断があったということだ。
 しかし、保安の面では逆であった。LPガス事故は急増し、昭和40年度に年間64件であった消費先事故件数は、翌41年度には125件に倍増していた。
 高圧ガス取締法省令を全面大改正し、LPガス独自の省令(液化石油ガス保安規則)をつくったのも、こうした時代的な背景があったといってよいだろう。(詳細はプロパン産業新聞2010年8月10日付で)
第28回 LPガス新法制定をめぐる知られざる舞台裏のドラマ(上)
 一つの法律をつくるのがそれほど簡単でないことは、知る人ぞ知るで、立法の必要性があり、それなりの説得力を持ち、手順を踏んで利害関係者の意見調整をクリアすれば、最終的には国会で法律として成立できるものと思うが、それがなかなか、紆余曲折を経ることが多い。
 LPガス新法づくりでも、一般業界人にはあまり知られていないドラマがたくさんあった。同法の立法、制定に携わった通産省(現・経産省)矢野俊比古・初代保安課長(昭和40年6月〜43年6月)記述の「液石法制定までのこぼれ話」を引用しながら、当時の対応などについて触れてみたい。
 現在のLPガス法づくりを、最初に打ち出したのは「通産省化学工業局の吉光久局長」であるという矢野課長説については、本紙前号でも紹介したが、業界関係者でその事実を知っている人は少ないだろう。保安を担当する部局の局長が、担当課長にLPガス新法構想を検討してほしいと言ったのは昭和41年の春、つまりLPガス需給安定法案の提出が見送られた直後であり、高圧ガス取締法省令の全面大改正が行われたばかりのときであった。(詳細はプロパン産業新聞2010年8月24日付で)
第29回 LPガス新法制定をめぐる知られざる舞台裏のドラマ(下)
 前号に続いて、LPガス新法制定をめぐる舞台裏のドラマをお伝えしよう。前号でも述べた通り、この記述は矢野俊比古元通産省保安課長の「液石法制定までのこぼれ話」の概要を引用させていただいた。
 昭和41年(1996年)春にスタートしたLPガス新法づくりは、42年の年明けまでには業界内、通産省(現経済産業省)内の調整作業がほぼ終了したと思われたが、LPガスの小規模導管問題で、都市ガス担当のガス課より問題提起があり、新法の調整作業は、この時点でも、未解決の懸案があることを実感させた。
 他省庁との調整作業も、まだこれからであった。消防庁、建設省(現国土交通省)との調整は順調に終わったが、自治省(現総務省)が立ちはだかった。
 「LPガス新法は、事業許可制度を柱にしているので、2以上の通産局所管区域にまたがり事業展開している企業は通産大臣、2以上の都道府県の地域にまたがり事業展開している企業は、通産局長の許可を受けることにしている。しかし自治省の高圧ガスは、施設所在地の都道府県知事の許可を必要としている。新法案で一部ではあるが、知事の権限が失われるのはこれを認めることはできない」というのが自治省側の意見であった。(詳細はプロパン産業新聞2010年8月31日付で)
第30回 消防も本気で考えていたLPガス事業の保安規制
 LPガス新法づくりの時期に、消防庁がLPガスの保安規制に乗り出すことを真剣に検討していた事実があった。筆者は当時JLPA(日本LPガスプラント協会)の事務局長を担当していた関係で時折、消防庁にも顔を出していた。
 昭和41年(1966年)早春のある日、消防庁予防課から相談があるといわれて出かけていったところ、「LPガスの一般家庭における爆発火災の実験をしたい。JLPAで引受けてもらえないか」という話であった。
 「消防庁で出せる実験予算は300万円。実験内容は一般家庭におけるLPガスの爆発火災がどうして起こるか、これを防止するにはどういう対策が必要か、といった基礎的な調査実験で、実際のモデル家屋をつくって実験をしたい」という相談であった。
 当時の一般家庭でのLPガス事故は、年間125件(消費世帯数1230万戸)、そのほとんどがガス漏れ・引火爆発(火災)で、消防はいつもLPガス事故が起こると、真っ先に現場へ飛んで行き、消火に努めている。残念ながら消防はLPガスのことをよく知らない。この実験で消防としての教育資料を得たいということであった。
 JLPAで消防庁の委託実験事業を受け入れてよいものかどうか、当時、“二重行政は困る”などといった議論が業界内にもあったので、関係先には事前に了解をとったうえで引受けることにした。(詳細はプロパン産業新聞2010年9月7日付で)
第31回 「LPガス新法」の制定で「業界はどう対応したか
 同年11月に提示された第2次案は、業界との意見調整も十分に行ったうえでの試案で、法令の名称も第1次案の「液化石油ガス消費者保護法」ではなく、「液化石油ガスの保安の確保及び取引の適正化に関する法律」と変更されていた。業界も法案の内容とともに法令名称の変更も行われたことで、第2次案については一部訂正要望を付して基本的には異議なし、ということでまとまりかけたところへ、都市ガス担当のガス課からガス課長見解なるものが突如発表されて、業界は騒然となった。
 それは、「導管をもって不特定多数(2戸以上)の消費者にガス供給をするのはガス事業法の対象である」という趣旨の内容で、LPガスの小規模導管供給に対して、かねて都市ガス業界から問題視されていた点を、LPガス新法制定議論に合わせて意思表示をしたものであった。
 昭和42年1月、全国LPガス協会連合会(全協連)は、LPガスの小規模導管供給をガス事業法の適用外とする方針を決議し、行政当局に申し入れを行った。
 同年4月6日、LPガス新法特別対策委員会が主催する「全国LPガス業者総決起大会」が東京・虎ノ門久保講堂で全国より1500人を集めて開催された。
 この業者大会で「LPガス新法の成立を促進し、同法において導管による生ガス供給を認めよ」「LPガス業者を圧迫するガス事業法の政省令を改正せよ」「LPガス事業法の制定を促進しよう」「LPガスの価格安定のため独禁法の適用除外を確立しよう」「全国6万業者は今こそ団結し、要求を貫徹しよう」といった大会決議を採択し、国会や行政庁に陳情した。
 同年5月30日、通産省は導管供給問題は棚上げでLPガス新法の国会提出を決め、6月16日に政府案として閣議決定。42年通常国会では審議未了、同年末の臨時国会で成立、43年3月1日施行で業界は新法体制へ移行した。(詳細はプロパン産業新聞2010年9月14日付で)
第32回 「新法」への移行過程にもあった悪戦苦闘のドラマ
 LPガス新法が施行されたのは昭和43年(1968年)3月1日。1年余に及ぶ立法作業で、紆余曲折はあったが、無事、成立を図り施行にこぎつけた苦闘のドラマについては、このシリーズでもすでに紹介した。
 新法の施行により、家庭・業務用LPガスの供給(販売)は、高圧ガス取締法(現高圧ガス保安法)体制から、LPガス新法体制へと移行されることになった。
 LPガス新法を担当する本省(通産省)保安課の体制も、法令施行時には一新をした。
 初代保安課長として、LPガス新法の制定を成し遂げた矢野俊比古氏は、43年6月1日付けで中小企業庁計画課長に転出した。保安担当課長を3年間も務めたというのは異例の扱いで、役所の人事をよく知らない業界人のなかには、「やり過ぎで左遷させられたのでは」などという人もいたが、矢野氏がその後、局長になり事務次官にまで昇りつめたことは、周知の通りである。
 矢野課長に代わって、二代目保安課長に就任したのは佐賀新太郎氏であった。
 佐賀課長は「私の任務は、矢野前課長がつくったLPガス新法を円滑に運用し、浸透させることである」といった趣旨の就任あいさつをしており、その方向で保安課内の役割分担も決めて、行政の方針を明確にした。課長自らも就任と同時に、LPガス事業の現場を訪ね、販売事業者の法令順守状況を視察しているが、予想以上の実態に「これは大変だ」という印象を受けたようだ。
 「10軒の販売事業者へ立入検査をすると、10通の始末書がいる」などといった感想を語っていた。
 確かに新法施行当初のLPガス業界には、解決すべき懸案(小規模導管供給問題など)が残されており、その動向を見極めたうえで対応しようという、待ちの姿勢があったのも事実。
 何よりも、新法の成立・公布(42年12月)から施行までの期間がわずか2カ月という短期間で、5万軒余の販売事業者が新法体制に移行するというのも、時間的にはかなり無理があったといってよいだろう。(詳細はプロパン産業新聞2010年9月21日付で)
第33回 「小規模導管供給」めぐり 都市ガス・LPG業界が対立
 LPガス新法制定の過程で、小規模導管供給の位置付け、取り扱いをめぐって、都市ガス業界とLPガス業界が激しく対立し、最終的にはガス事業法に基づく「簡易ガス事業」(70戸以上)と、LPガス法に基づく「集団供給」(70戸未満)方式に区分されることになった。
 その経緯や概要についても、紹介しておきたい。
 LPガス新法の業界内意見調整が行われていた昭和41年(1966年)の暮れ、通産省公益事業局ガス課より「LPガスの小規模導管供給は、社宅等の一部例外を除き、原則としてガス事業法の対象となる」旨の同課見解が出た。
 この時点では、あくまでも利害関係者より出た一つの意見くらいの受け止め方で、LPガス業界として反論するなどという動きはなかった。
 しかし、翌昭和42年2月に提示されたLPガス新法の第2次案のなかで、LPガス小売り事業の定義を、「一般消費者等に対して液化石油ガスを販売する事業(一般の需要に応じ、導管により液化石油ガスを販売する事業を除く)」とした条文案が出て、LPガス業界は猛烈な反論に出た。LPガス業界は、LPガス販売事業のスタートのときから、「個別供給」と同時に「小規模導管供給」も行ってきており、この供給方式の一つをガス事業法の対象とするのは、LPガス事業の発展を阻害するものであるという主張であった。
 ガス課もその後「少なくとも、都市ガス供給区域内での小規模導管供給は認められない」との重ねての主張を打ち出し、都市ガス、LPガスの妥協はますます難しい状況となった。(詳細はプロパン産業新聞2010年9月28日付で)
第34回 ガス業界の活性化も果した「簡易ガス事業」制度の導入
 LPガス導管供給の位置付けをめぐって、都市ガスとLPガス業界が激しく対立した経緯については前号でも紹介した。
 当時の椎名悦三郎通産大臣が、LPガス新法の国会審議の場で「LPガスの導管供給問題の位置付けについては、公益的見地からLPガス新法で対応できるかどうか、総合エネルギー調査会ガス部会の意見も聞いて、1年以内程度で判断を出したい」と答弁したのを受けた形で、同調査会ガス部会の検討会が行われた。
 昭和43年(1968年)秋、ガス部会の中立委員がまとめた答申案は需要家戸数を3段階に分けて、「50〜1000戸を簡易ガス事業」として、ガス事業法で法的に位置付ける。50戸未満はLPガス法の対象とする。1000戸以上は都市ガス事業の対象とするというものであった。
 このガス部会の答申案について、LPガス業界は予想通り、一般消費者代表も含めた中立委員の出した案でもあり、受け入れざるを得ないとする賛成論と、LPガス導管供給はあくまでもLPガス法の対象とすべきである―という、これまでのような主張をする反対論が出て、業界としての意見の一本化が求められることとなった。
 都市ガス業界は、これも予想通りで異議なしであった。
 こうした対立のなかで、LPガス小売業界の代表的立場で、ガス部会のメンバーの一人でもある荒木徳五郎氏から、新提案として「簡易ガス事業は300戸以上とし、それ以下をLPガス事業としてLPガス法の規制にすべし」という意見が出されたが、LPガス業界案として一本化することはできなかった。
 年が明けて44年1月、通産省はガス部会の答申をふまえ、関連業界の動向も見極めたうえで、ガス事業法の改正案として、簡易ガス事業(50戸以上)を盛り込んだ法案を提示した。(詳細はプロパン産業新聞2010年10月5日付で)
第35回 LPガス販売業の近促法指定 業界の意識は意外に低かった
 昭和41年(1966年)高圧ガス取締法省令の全面改正(液化石油ガス保安規則制定)、43年LPガス新法施行、45年改正ガス事業法(簡易ガス事業)施行と、法的な整備が進められてきたLPガス業界にとって、次なるテーマは経営の合理化、近代化をどう図るかということであった。
 LPガス販売業は経営基盤の脆弱な中小零細事業者が多く、事業の拡大発展に対応した設備の近代化は遅れていた。流通機構も複雑多岐で、流通コストが割高という問題を抱えていた。
 LPガス販売業の主たる業務は配送業務であり、人件費や輸送費などが上昇していく中で、LPガスの販売コストも上昇せざるを得ない状況にあった。
 こうした流れのなかで、LPガス販売業は昭和46年に「中小企業近代化促進法」(近促法)に基づく指定業種の指定を受けた。
 先ずは52年度までの販売事業者個々の経営合理化、近代化を図っていくということで、それまでの市場開拓、需要拡大に努めてきたLPガス販売事業のあり方に新たな業界的課題が追加されることになった。
 ちなみに、この当時(昭和46年)のわが国LPガス産業の需要実績は、家庭業務用362万1000d/年、需要家件数約1500万戸、都市ガス用26万9000d、自動車用149万1000d、化学原料用87万6000d、輸出5万2000d、合計774万4000d、現在の約5分の2程度の市場規模で、エネルギー間競争も激化していたが、LPガス市場は活気に満ち、需要は拡大発展の一途を遂げつつあった。(詳細はプロパン産業新聞2010年10月12日付で)
第36回 消費者パワーに押されて「メーター法制化」が実現
 わが国でLPガス販売をメーター制販売に切換える趣旨“法制化”の動きが本格化したのは、LPガス新法の施行(昭和43年)、簡易ガス事業制度の導入(45年ガス事業法改正、施行)、近促法の指定業種の指定(46年)といった一連の時代的な流れのなかで持ち上がったテーマの一つといってよいだろう。
 昭和46年(1971年)3月、全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)から、通産当局へLPガスのメーター制義務付けについての要望書を提出したのがきっかけで、メーター法制化の動きが活発化してきた。
 地婦連はこの要望書提出に併せ、全国的なLPガス販売についての実態調査を行っている。
 当時のLPガス販売の形態は重量販売が中心であったが、消費者側からは取引の明瞭化をしてほしいという声が多かった。重量販売は面前計量が義務付けられているが、正確に計量されているのかといった疑問、容器に残っている残ガスの計算はどうなっているのかといった不信の声、留守中に交換しており残量確認ができなかった。また、残ガスの上に充填するとガスの品質が変わるのではないかといった疑問、都市ガスに比べると前近代的な取引であるといった率直な消費者の声などが報告された。
 こうした消費者の声は、メーター法制化を推し進める流れにもなった。LPガス新法成立時の衆議院商工委員会でも「メーター化促進」の付帯決議がなされていた。
 業界団体も盛り上がるメーター化の声を無視できず、日連も法制化やむなしという決定をした(昭和47年1月)。
 こうした状況のなかで、行政当局も検討を終えて47年12月6日、「メーター法制化に関するLPガス法改正省令」を公布、施行は48年2月、猶予期間は昭和50年3月31日と決定し、メーター法制化はスタートした。(詳細はプロパン産業新聞2010年10月19日付で)
第37回 業界の近代化にも役立ったLPガス販売のメーター制
 LPガス販売のメーター法制化は、昭和47年12月6日公布(LPガス法省令の改正)、同48年2月1日施行、猶予期間2年(昭和50年3月31日まで)で決着し、我が国のLPガス販売は質量販売体制となった。
 そして、少量消費者、内容積20g(5`c)以下の小型容器による販売、自動車・屋台等に備えた移動容器への販売、通産大臣が危険の恐れなしと認めた場合の取引は適用除外とすることでメーター制へ完全移行した。
 ここに至るまでの関係者の主張や取り組みなどについては、前号でも紹介をしたが、メーター法制化の立法業務を担当し、推進役として活躍した丹治龍二氏(当時、通産省鉱山石炭局石油業務課LPガス担当班長)の証言も紹介しておきたいと思った。
 丹治氏は、LPガスの需給、流通政策を担当していて、LPガス新法ができた頃までは、メーター化の自主的な促進は必要であるが、法制化まではやる必要ないと考えていたという。42年、LPガス新法制定時の衆院商工委員会の付帯決議も「メーター化の促進」 は強調しているが、法制化までは謳っていなかった。
 しかし、この頃から消費者運動が活発化し、灯油とともにLPガスもターゲットの一つになりつつあった。灯油は価格問題が中心であったが、LPガスは取引面でのトラブル、とくに面前計量がきちんとなされていないという消費者側からの問題提起があった。
 地婦連が、昭和46年に二度にわたってLPガスメーター法制化の陳情をしてきたことで、行政当局もそれまでの自主的なメーター化政策をあきらめて、義務化、法制化を本気で決断せざるを得ないという行政判断に変わったという。(詳細はプロパン産業新聞2010年10月26日付で)
第38回 ガス警報器の開発普及で先人たちの頑張りに学ぶ
 我が国でLPガス用のガス漏れ警報器が開発され、普及を始めようとしていた昭和45年(1970年)のある日、岩谷産業の岩谷直治社長(岩谷産業の創業者)から、行政の皆さんにも理解し応援してもらいたいので、保安課長に取り次いでほしいと頼まれ、社長を案内して保安課を訪ねたことがあった。
 この当時、一般家庭でのLPガス事故は相変わらず頻発していて、通産省も各都道府県に対し、事故防止対策の強化を通達していたときでもあったので、ガス事故防止に効く安全機器の開発、普及提案には行政当局も大いに関心があり歓迎してくれると思った。
 岩谷社長は、警報器「みはり」の構造や機能について熱心に説明した後、実際に取付けをしてみせようということで、課長席前のコンセントへ接続すると、ご承知のような大きなブザーの音が鳴り響いた。課長以下その場にいた誰もが初めて耳にし、体験した、ガス漏れ警報器との出会いでもあった。当時、保安課長をしていた真野温氏はいまでも、あの時のことをよく覚えていて「あの小亀の形をした安全器はどうなっている?」とガス事故のニュースを聞くといつも警報器のことを思い出すと語っていた。ガス警報器が安全機器の一つとして普及し、定着するまでには幾多の試練や悪戦苦闘の歴史があった。
 「鳴り過ぎる」「殺虫剤でも鳴るので電源を抜いた」などといった一般消費者からの苦情や、国民生活センターからの品質面での改善指摘を受けたりしたことがあった。(詳細はプロパン産業新聞2010年11月2日付で)
第39回 本紙創刊50周年企画  記憶に残る「50のテーマ」
 温故知新(おんこちしん)―古いことを調べて、新しい知識、見解を得ること。(広辞苑)
 本紙が今年秋に創刊50周年を迎えるということで、筆者に与えられた役割分担が、この連載シリーズを50回書くことであった。何をどんな風に書くか、頭に浮かんだのが「温故知新」。50年昔にさかのぼって、その年に起きた出来事を掘り起こし、検証してみようと、本紙が創刊した昭和35年から年次を追って、今回(39回)までやってきた。
 あと11回で当初予定の50回になる。それまでは頑張って、50周年のけじめにしたいと思う。
 この連載のスタートは、本年2月2日号であった。最終的に第50回はちょうど1年後の来年2月1日号に当たる。今週号は本紙50周年の特別号になっているので、この連載も、これまでの39回の回顧と、これからの11回分について触れてみたい。
 これまでは、我が国LPガス業界の発展期の出来事に焦点を当ててきた。
  1. 「自主保安基準づくり」「プラントの安全実験」「海外の実情調査」と3年がかりの自主保安努力で、プラントの保安距離を20bから8bに短縮法令改正に成功(昭和38年)、1500坪が150坪でもプラント建設可能となり、LPガス産業の発展に大きく貢献
  2. 業界発展期に起こった数々の「典型的な事故」の分析、検証
    「一般家庭でのガス漏れ爆発事故、頻発(昭和35年)」
    「山中湖畔山荘CO事故(昭和37年、10人死亡)」
    「LPG冷凍輸入タンカー&冷凍貯蔵タンクの亀裂事故(昭和37年)」
    「球型タンクの溶接部でのガス漏れ(昭和38年)」
    「LPGタクシー連続爆発(昭和37〜38年)」
    「LPガス充填所、スタンド爆発(昭和39年)」
    「震度5強の新潟大地震(昭和39年)」
    「西宮LPGタンクローリ転覆爆発事故(昭和39年)」
     これらの事故はLPガスの基礎的な事故で、徹底的に事故要因を究明し、ハード・ソフトの対策を講じたものは再発防止に成功しているが、ユーザーの取り扱いミスとされた一般家庭のガス漏れ爆発事故は、昭和61年の安全機器普及運動まで解決できずに続発してきた。
     山中湖山荘CO事故もユーザーの取り扱いミスとされたことで、徹底的な解決がなされず、CO事故は今日もなお続発している。(詳細はプロパン産業新聞2010年11月9日付で)
第40回 第1次オイルショックの対応 ドキュメントで再現すると…
 昭和48年(1973年)10月6日、エジプト・シリア軍とイスラエル軍がスエズ湾近郊のゴラン高原で交戦(第4次中東戦争とされた)、第1次オイルショックへと発展していった「油断」の歴史は、石油エネルギーの大半を中東に依存している我が国産業にとって、大きな危機の教訓となった。突如襲ってきた石油ショックに、我が国がどう対応したか、緊迫した当時の模様を時々刻々の記録で追ってみた。
 ▽10月16日 中東産油国は、第4次戦乱で「原油生産の削減」を打ち出すと同時に「原油の輸出公示価格を21%引き上げ」を通告。
 ▽10月16日 OPEC(石油輸出国機構)のこの決定を受け、日本政府は直ちに「石油緊急対策」を決定。
 「大口石油需要先に対する供給削減を検討する、マイカー・レジャー産業等に対する供給抑制、ガソリンスタンドの休日営業を自粛する」等が内容で、一般国民にはエネルギーの節約運動を訴えることとした。
 ▽10月17日 OPEC各国は、原油生産を毎月5%削減し、イスラエル支援国への石油輸出停止を決定。
 ▽10月22日 日本政府は「石油需給適正化法」(※1)と「国民生活安定緊急措置法」(※2)を公布。
 ※1 「石油需給適正化法」は、石油危機による混乱を回避するため@石油消費の節減A石油配分の適正化B石油価格の安定化を目的とした法令。
 ※2 「国民生活安定緊急措置法」は、政府が値上がりの激しい品目を指定して、標準価格を設定し、その価格を上回った時は引き下げを勧告する。また、コスト上昇で、やむなく標準価格を値上げせざるを得えないときは事前に届け出て、承認を受けるなど。
 ▽10月25日 エクソンなどの石油メジャー(サウジ国営石油、シェル、モービル、BP)は、12月分より日本への原油値上げ30%、供給削減10%を通告。(詳細はプロパン産業新聞2010年11月16日付で)
第41回 オイルショックの混乱「標準価格制」で沈静化
 昭和48年(1973年)10月の第4次中東戦争をきっかけにして起こった第1次オイルショックの嵐は、同年末の停戦で沈静化するかと思われたが、その影響は翌49年にそのまま引き継がれていった。
 OPEC諸国は、原油生産の削減とともに、原油公示価格の一方的な引き上げを行った。昭和48年10月時点の1当たり3011jの原油価格は、3カ月後の49年1月には約3倍の同1万1651jになった。原油輸入の約80%を中東諸国に依存している我が国にとって、OPECのこうした石油戦略は国民生活に深刻な影を落としていった。
 我が国政府がいち早く緊急対策を決定し、対応していった模様は前号でも紹介した通りである。生活関連物資等の買い占め、売り惜しみ緊急措置法の対象物資にガソリン、軽油、A重油、印刷用紙とともに、LPガスが加えられたのは言うまでもなかった。
 49年1月18日、政府は販売価格が日々高騰し、市場混乱になりかけていた灯油とLPガスについて、その小売販売価格を「標準価格制」とすることを決定した。
 LPガス価格は10`c当たり1300円(配送料込み)、灯油は18g入り店頭販売価格380円と決定。
 ▽LPガス標準価格(10`c1300円)のモデル計算は仕入価格550〜590円、従業員は男女各2人と店主の5人、月間販売量10d、消費世帯数400戸程度の店を想定。
 ▽商習慣でメーター貸付料、容器貸付料を徴収している場合は、これらのコストも1300円のなかに織り込まれており、配送料と共々別途徴収することのないように留意する。
 ▽5`、20`、50`容器入り価格については、従来の商習慣に従い、10`標準価格を基準として勘案する。
 ▽メーター制の場合、販売価格の決定は、産気率がガス組成及び温度によって変化するので困難な点があるが、理論産気率に基づいて妥当な価格を判定する。
 ▽メーカー、卸売事業者は小売事業者が標準価格で販売できるよう、仕入価格の適正な設定に協力する。(詳細はプロパン産業新聞2010年11月23日付で)
第42回 コンビナートもLPガスも「休日関連事故」が多かった
 第1次オイルショックのあった昭和48年(1973年)の7月から10月にかけて、出光石油化学鞄ソ山工場とチッソ石油化学褐ワ井工場、信越化学工業樺シ江津工場で連続して爆発火災事故が起こった。
 関係者は、これら事故がほぼ同じ時期に連続して起こったので「コンビナート連続爆発事故」と称して、徹底した事故調査を行い、再発防止策を講じた。関係法令等の改正も行われ、規制強化がなされた。
 この時期にどうして保安管理等でも、我が国の最先端をゆくコンビナートで連続してなぜ、爆発火災事故が起こったのか、問題視された出来事でもあった。保安規制や保安基準の変更があったということでもなかった。
 オイルショックとの関連、つまり生産面でのオーバーワーク的な要素が影響したのではないか、といった見方もあったが、事故報告書にそのような記述はない。
 筆者がこれら事故について注目したのは、「何曜日」に起こったのかということであった。なぜ「曜日」にこだわったのか。これまでの高圧ガス関係の事故を調べると、「休日関連事故」が結構多いのに気付いたからである。
 ところで、これら3件のコンビナート事故報告書には発生日時の記載はあるが、3件とも「曜日」の記載がなかったので、調べたところ、なんと3件とも休日関連事故そのものであった。(詳細はプロパン産業新聞2010年11月30日付で)
第43回 「消費者保安」をテーマに 海外先進国への視察団派遣
 昭和50年代(1975年〜)に入ると、第1次オイルショックの後遺症の一つでもある「保安の問題」が、業界の重要テーマになっていた。事業所事故もかなりあったが、何といっても一般消費者家庭での爆発事故が頻発していた。
 昭和50年度の事故件数は497件、51年度581件、52年度638件といった調子で毎日、全国のどこかで1件や2件発生し、一般社会のひんしゅくを買いつつあった。
 当時のLPガス業界はこれらの消費者事故を、消費者の不注意、取扱いミスによるもので、供給者責任ではない。消費者は安全取扱いにしっかり努めるべき、といった発想で保安問題を消費者のせいにしていた。
 しかし、いくら消費者の保安啓蒙を強化しても、事故はなくならなかった。行政当局としても、これまで法令面からの規制強化策を図ってきたが、効果は薄く、事故は減らなかった。
 こうした保安状況のなかで、通産省は昭和51年8月26日付けをもって、高圧ガス及び火薬類保安審議会に対し「液化石油ガス消費者保安対策のあり方如何」という諮問を行った。
 これを受けた同審議会は、約1年の間に35回もの会合を開き、消費者事故防止対策についての総合的検討を行い、答申案をまとめた。この検討のなかで、海外LPガス先進国の保安状況も視察調査をして参考にしようという案が出て、急きょ、海外視察団が編成された。(詳細はプロパン産業新聞2010年12月7日付で)
第44回 海外に学んだ「安全・保安」技術 今後は日本発の世界を築こう
 前号でも紹介したが、我が国のLPガス安全、保安技術の基本は、海外先進国、とくに米国のLPガス技術に学んだ部分が多い。
 マイコンメータのように、日本独自で開発した安全・保安システムもあるが、製造、貯蔵、移動、充填、供給、消費、取り扱いに至る各分野で、欧米の先進的な安全・供給システムを学び、模倣し、ノウハウを導入するなどして、日本版にしたものは、かなりある。参考までに、その幾つかを紹介すると―。

◆プラントの保安距離
 昭和38年(1963年)8月9日までの日本の法令基準は、一律20b以上となっていたが、米国のNFPA基準のミニマム25フィート(8b)の思想を取り入れ、各種安全対策を講ずることを前提に短縮化することに成功した。
 保安距離20b(約1500坪)が8b(約150坪)になったことで、我が国LPガス産業は拡大発展の道を拓いた。
◆緊急遮断弁(装置)
 昭和39年の茨木充填所タンク爆発事故と、40年の西宮タンクローリ爆発事故の再発防止策を検討したなかで、緊急遮断弁の取り付けが義務化された。それまではエキセスフロー弁(過流防止弁)が普及していたが、米国でプラント安全の切り札とされていた、インターナルセーフティバルブ(緊急遮断弁)の発想を取り入れた。(詳細はプロパン産業新聞2010年12月14日付で)
第45回 オイルショックの後遺症? 機器関連のトラブルも続発
 第1次オイルショック(昭和58年10月)の前後に、コンビナートの連続爆発事故やLPガスの消費者事故の増発傾向があったことを紹介したが、LPガス関連機器のトラブルもこの時期に、これら事故に連動するかのごとく頻発した。
 昭和49年(1974年)〜50年の間に、容器破裂、警報器異常、密閉燃焼式ふろがまのヒビ割れ、簡易コンロ加熱爆発、ガス管亀裂、自動切替調整器ダイヤフラム破損等のトラブルが集中的に起こり、関係業界を緊張させた。
◆2部制50`容器破裂
@ 昭和49年8月28日、一般消費先に設置されていた2部制容器の50`容器(溶接箇所が容器中央部1カ所の深絞り型)側面に割れが発生、ガス噴出、火災爆発で1人死亡、重傷2人、軽傷8人、建物一部損壊、車両も焼失。
A 昭和50年4月30日、家屋の一部を破損。
B 昭和50年6月11日、通行中の学童の足にLPガスがかかり軽度の凍傷事故が発生、一般紙でも大きく報じられた。
C 昭和50年7月14日、建物の一部破損。
 これらLPガス容器の破裂事故は、2部制容器の50`容器に共通して、一般消費者の設置先で起こった。事故原因は容器内の傷の存在と焼鈍方法の不適切とされた。
 通産省は、50年7月15日付けの立地公害局長通達で、2部制容器のうち、昭和49年7月26日以前に製造されたもので、再検査を受けていないものについては、LPガスの充填をしないように各都道府県知事宛てに通告した。(詳細はプロパン産業新聞2010年12月21・28日付で)
第46回 昭和49年、52年と相次ぎ出された「保安答申」
 昭和49年7月、高圧ガス及び火薬類保安審議会が出した「保安答申」は、第一次オイルショック前後の一連の石油化学コンビナート関連の連続爆発事故対策を主な目的としたものであったが、当時のLPガス事故(一般消費家庭)もかなり増大してきていた(48年368件、49年540件)ので、答申の一節に、「液化石油ガス消費者保安対策」として、問題提起をしたという経緯がある。
 そのポイントは、@消費者保安対策の徹底・強化…消費者への保安マインドの啓蒙・安全機器の設置促進をA販売事業者の調査義務の的確な履行、問題設備の改善促進B保安調査代行組織(保安センター)の充実…現行制度のなかでの位置付け等の明確化C消費設備についての保安確保、強化…設備の設置基準順守徹底、配管設備の適正化等D保安教育制度の改善強化…事故のなかには販売事業者の従業員の知識不足、取り扱い不注意によるものもあるELPガス保安の研究開発体制の整備F損害保険制度の拡充…必要に応じた、損害填補限度額を引き上げる等の検討―のほか、CO事故防止関連についても、吸排気設備の確実な設置・管理や戸を開けよ、といった対策だけでなく、酸欠防止装置付き燃焼機器の開発導入促進など、フェールセーフについての議論なども熱心に行われた。
 しかし、LPガス事故が止むことはなかった。昭和50年497件、51年581件と相変わらずハイレベルで増加し、LPガスは危険、ガス爆発といえば都市ガス事故までも、プロパンと勘違いされたようなケースなどがあった。(詳細はプロパン産業新聞2011年1月18日付で)
第47回 一般消費者事故撲滅対策でLPガス法10年目の大改正
 昭和49年保安答申、52年保安答申を受けて、通産省は昭和53年7月にLPガス法の大改正を行った。
 法令改正に至った背景は、LPガス法制定時(昭和43年)から10年近い経過のなかで、業界をめぐる情勢が大きく変化をしていたということである。
 一般消費家庭の事故件数が、昭和43年時点の112件/年に対し、53年には570件/年と大幅アップ、LPガスの消費世帯数は、43年に1400万世帯であったものが、53年には2011万世帯に、LPガス消費量は、家庭業務用で246万4000トン/年が535万7000トン/年へと倍増している。
 また、LPガス法制定時には想定されていなかった「保安センター」や「配送センター」といった、合理化がらみの新しい供給システムの導入も活発化しつつあった。
 こうした情勢変化に、行政当局も的確に対応しているが、効果のほどは相変わらずであった。(詳細はプロパン産業新聞2011年1月25日付で)
第48回 調査代行「保安センター」の位置付け、在り方をめぐって
 昭和53年、LPガス法が総合的に見直され、法令の大改正が行われたことは、前号でも紹介をした。
 その折、大議論になったのは、販売事業者の在り方と関連した調査代行機関(保安センター)の位置付け、在り方の問題であった。
 LPガス法は、LPガス販売業を単なるエネルギー商品の販売事業でなく、商品とともに保安サービスを提供する事業として位置付けている。設備の点検調査義務、非常時の緊急対応義務、従業員の保安教育、業務主任者の選任等の保安確保のための、各種の義務を販売事業者に課している。
 10年目の改正では、これらに加えて周知義務や設備士制度の創設、そして、保安センターの活用についても、これを位置付けすることで、消費設備の調査点検義務が、より円滑に実施できるような道を開いた。しかし、業界内ではLPガス販売業が保安は保安センターに、配送は配送センター、集金は銀行振り込みといったように、LPガス販売事業者の基本的業務をそれとは直接関係のない第三者によって容易に実施できるようになると、手抜きの業者が増え、新規参入も増えるなどして、健全な業界づくりができなくなるといった業界の将来を懸念する声がかなりあった。
 昭和52年当時の調査で、保安センターは全国で約400カ所あり、保安センターに調査を委託している事業者は、アンケート調査回答者の約4割と実態面では、この時期すでに急速な浸透がすすんでいた。
 行政サイドも法令順守を徹底するには、保安センターの有効活用を推進することがベターであるとして、保安センターの位置付けを法的にもクリアすることに積極的であった。(詳細はプロパン産業新聞2011年2月1日付で)
第49回 第2次オイルショックLPガスも低成長記録
 昭和53年(1978年)秋、イランのバーレビ王朝が倒れ、54年4月、同国はイスラム共和国へと移行した。このイラン革命により、同国での原油生産、出荷が中断、同国から大量の原油やLPガスを輸入していた日本の需給はひっ迫することとなった。
 OPEC(石油輸出国機構)は、昭和48年10月に勃発した第4次中東戦争に抗議し、原油公示価格を21%値上げし、これによる世界経済への打撃となった。これを「第1次オイルショック」と呼んだ経緯があるが、前述のイラン革命直後の昭和54年(1979年)にも再び原油公示価格の大幅値上げ(4段階に分けて14・5%の価格アップ)を行った。これを「第2次オイルショック」と呼んでいる。
 第2次オイルショックは、第1次オイルショック時の教訓を生かし、省エネ政策の浸透、企業の合理化対策などにより、日本経済に対する影響は第1次ほどひどいものにはならなかった。また、期間も第1次のときほど長引くことなく、イランも原油輸出を再開し、需給も安定化していった。ただイランからのLPガス輸入は、ほぼ10年間ストップしたままであった。
 OPECは第1次ショックで原油の生産と価格の主導権を手中にしたが、同時に自国資源を完全に支配するため、自らの販売ルートを確立させようとしたのも第2次ショックの戦略となった。サウジアラビアは直接取引(DD化)を開始し、従来のエクソン・モービルなどが発表していた公示価格に対して、独自の政府公示価格(GEP)を打ち出すようになった。(詳細はプロパン産業新聞2011年2月8日付で)
最終回 業界の永遠のテーマ、保安との闘いに終りなし
 昭和55年(1980年)は、第2次オイルショックの直後で、LPガス業界にとってもいろいろな出来事があった。
 前号でも紹介したが、OPECの戦略でLPガスも輸入価格の高騰などもあって需要が停滞し、我が国LPガス史上、初のマイナス成長が記録された。昭和54年の総需要量1417万8000d(年)に対し、55年は1395万2000d(年)に、その後の需要も数年続けて低成長となった。
 需要開発、需要促進が大きな業界課題として提起されたのも、この当時の業界状況の一つであった。
 他の競合エネルギーに対し、独歩高のLPガスでは太刀打ちできないとの嘆きも業界内にはあったが、創意工夫で逆境を切り抜け、需要拡大を実現した先進的な事業者がいたのも事実。我が国のLPガス産業は当時、まだ四半世紀の年代で、成長の可能性は沢山あった。しかし、解決しなければならない課題も山積していた。
 その一つが「保安」対策であることは周知の通り。
 この年は、LPガス法10年目の大改正の直後で、業界をあげて全消費家庭の設備総点検を実施し、総括をした年でもあった。達成率99%、総世帯1900万戸に対し、要改善件数が約700万件もあると指摘された。これら要改善設備の処理は、次年度へと引き継がれた。
 ちなみに、この数年の事故発生件数をみると、LPガス法10年目の改正の年、昭和53年は570件、54年793件(過去最多)、55年が761件といった状況で、法令規制をいくら強化しても、あまり効果が上がっていないというのが現実の姿であった。(詳細はプロパン産業新聞2011年2月15日付で)
石油産業新聞社
取締役会長
TOPページへ⇒